開目抄

四条金吾 第7回「法難 5」松葉ケ谷の法難の構図

四条金吾 第7回「法難 5」

承前

 立正安国論のご執筆に関しては、「立正安国論奥書」に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の剋の大地震を見て之を勘う」とあります。
 鎌倉時代は激動の時代でしたが、特に大聖人の御在世は災害や天変地異が多くあった時です。その証左の一つが、改元の多さで、大聖人は60年のご生涯で24の元号を経験されています。改元は、
 1.君主の交代による代始改元
 2.吉事を理由とする祥瑞改元
 3.凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元
 4.三革を区切りと見なして行われる革年改元(三革とは、革令(甲子の年)・革運(戊辰の年)・革命(辛酉の年))
の4つの理由により行われます(http://bit.ly/cvf8PG)が、大聖人御在世時は、その多くが災異による改元です
 以下に、大聖人御生誕から御入滅までの元号とその改元理由を列記します。

 改元の月日     改元の理由
  承久(1219)《承久四年二月十六日日蓮大聖人御生誕》
  貞応(1222)4・13 後堀河天皇の代始め
  元仁(1224)11・20 災異
  嘉禄(1225)4・20 災異
  安貞(1227)12・10 災異
  寛喜(1229)3・5 災異
  貞永(1232)4・2 災異
  天福(1233)4・15 四条天皇の代始め
  文暦(1234)11・5 災異
  嘉禎(1235)9・19 災異
  暦仁(1238)11・23 災異
  延応(1239)2・7 災異
  仁治(1240)7・16 災異
  寛元(1243)2・26 後嵯峨天皇の代始め
  宝治(1247)2・28 後深草天皇の代始め
  建長(1249)3・18 災異
  康元(1256)10・5 災異
  正嘉(1257)3・14 災異
  正元(1259)3・26 災異
  文応(1260)4・13 亀山天皇の代始め
  弘長(1261)2・20 災異
  文永(1264)2・28 甲子の年(干支の始め)
  建治(1275)4・25 後宇多天皇の代始め
  弘安(1278)2・29 災異

 ちなみに、建長元年(大聖人28歳)頃から、立正安国論奏上までの天変地異を書き抜いて見ます。

  建長元年(1249年) 3.23 京都大火
  建長2年(1250年) 3   京都大火
  建長3年(1251年) 2.10 鎌倉大火
  建長6年(1254年) 1.10 鎌倉大火
            7   暴風雨
  康元元年(1256年) 6   洪水、白昼光物
            8.6  大風、洪水、疾病流行
  正嘉元年(1257年) 5.1  日蝕
            8.23 大地震、地下水涌出、火災
            9.4  地震
            11.8 大地震、若宮大路焼失
  正嘉2年(1258年) 1.17 寿福寺炎上
            6   鎌倉大寒気
            8.1  京畿大風雨
            10.16 鎌倉大雨、洪水
            12.16 地震、雷鳴
  正嘉3年(1259年)     大飢饉
  正元元年(1259年)     大疾病
  文応元年(1260年) 4.29 鎌倉大火、長楽寺前より亀谷に及ぶ
            6.1  疾風、暴風、洪水

            7.16 「立正安国論」奏上
            8.27 松葉ケ谷の法難

 こうしてみると、「立正安国論」にある「近年より近日に至るまで、天変地異や飢饉・疫病が、天下に満ち満ち地上を広く席捲している。牛馬が小道に倒れ、骸骨が街路に満ちている。死に至った人はすでに大半を超え、悲しまない者は実に一人もいない」というありさまが、あながち当時特有の誇大な表記ではないことが想像されます。
 「立正安国論」が提出された1260年は、4月13日に改元され、文応となりますがそれ以前は、正元二年です。当時の有名な落書に「正元二年院落書」があります(百瀬今朝雄校注『日本思想体系22.中世政治社会思想下』.岩波書店.p342~)。

(引用)
「正元二年院落書」

年始凶事アリ 国土災難アリ
京中武士アリ 政ニ僻事アリ
朝議偏頗アリ 諸国飢饉アリ
天子二言アリ 院中念仏アリ
当世両院アリ ソゝロニ御幸アリ
女院常御産アリ 社頭回禄アリ
内裏焼亡アリ 河原白骨アリ
安嘉門白拍子アリ 持明院牛アリ
将軍親王アリ 諸門跡宮アリ
摂政二心アリ 前摂政追従アリ
左府官運アリ 右府果報アリ
内府ニシゝアリ 花山ニ出家ノ後悔アリ
四条権威アマリアリ 按察使ニカシラアリ
大弁ニ院宣定アリ 除目僧事ニ非拠アリ
嵯峨殿ニハケ物アリ 祇園神輿アリ
五条殿ニ天狗アリ 園城寺ニ戒壇アリ
山訴訟ニ道理アリ 寺法師ニ方人アリ
前座主冥加アリ 当座治山ニ勝事アリ
高橋宮ニ嘉寿アリ 綾小路ニシソクアリ
大僧正ニ月蝕アリ 正僧正察会アリ
円満院乱僧アリ 桜井ニ酒宴アリ
聖護院ニ穏便アリ 東寺ニ行遍アリ
南都ニ専修アリ 大乗院馬アリ
学生ニ宗源俊範アリ 武家過差アリ
聖運ステニスエニアリ 
 正元二年庚申正月十七日院御所落書云々
【続群書類従巻九百八十】 (以上)

 当時の世相が、天変地異だけでなく、政治的にも宗教的にも混迷を極めていたことがよくわかります。落書のそれぞれの項の背景等については http://bit.ly/9d6vRL に解説がありますので、そちらを参照してください。非常にわかりやすいです。

 立正安国論では、天変地異や飢饉、疫病の原因が正法を捨てて悪法に帰依したことにあるとし、特に念仏は「一凶」であると断じました。この結果、大聖人は幕府の上層部や念仏者たちの激しい怒りをかい、提出から一ヵ月後、念仏者たちが松葉ケ谷の草庵を襲撃します。(四条金吾 第5回「法難 3」、「破良観等御書」の項を参照)
 つまり、松葉ケ谷の法難は、念仏者たちが幕府の権力者、町の有力者たちと画策して、大集団で暴動を起こした、という構図です。
 また、「破良観等御書」には「両国の吏・心をあわせたること」とも書かれていて、権力の介入があったことが示されています。
 「御書の世界」第2巻p23では、この「両国の吏」を、執権長時と連署政村のこと、としています。
 本当はどうであったかはわかりませんが、上記引用のすぐ前の部分に「上に奏すれども人の主となる人は・さすが戒力といゐ福田と申し子細あるべきかとをもひて左右なく失にも・なされざりしかば・」という文章があって、この「上」は北条時頼のことと思われますが、時頼は正視眼で成り行きを見ていたとしても、執権長時と、重鎮重時との関係が大聖人迫害に影響していることは十分考えられます。
 大聖人を安房から追った東条景信は北条重時の被官であり、執権長時は重時の子どもである、という事実があるからです。

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 池田名誉会長は、この松葉ケ谷の法難の構図にてついて、次のように論及されています。

(引用)
 いよいよ道門増上慢が牙をむいてきたのです。宗教者が言論ではなく、武力・暴力をもって批判者を亡き者にしようというのだから、狂気というほかない。
 しかし、それが末法の宗教家の実態なのです。その誤った言動が、本来、人間にとって大切な宗教そのものへの反感を生み出してしまう。そして、宗教の正邪が問われることすらなく、宗教そのものが害あるものとして否定されてしまう。その罪は極めて重い。
 だからこそ、正しい宗教を持つものの責任は重大である。いよいよ心強く、悪を打ち破り、正義を宣揚していかなければならない。さもなければ、正義は埋没し、忘れ去られて、民衆は苦悩の深い闇へさらに沈んでしまうからです。
 (「御書の世界」第2巻 p24)

 どこまでも真実を求め、正義を追及しつつ、民衆の幸福実現を目指す大聖人の連続闘争は、松葉ケ谷の法難によって道門増上慢による迫害という、新たな展開を見せるのです。
 正法を弘通しようとするとき、それを妨げようとする働きが起こります。それが三類の強敵です。
 勧持品に、迫害者の具体的様相や迫害の内容について説かれており、それを妙楽大師が三つに分類して「三類の強敵」と表現しました。
 三類の強敵については、創価学会のサイトに、次のように解説されています。

(引用)
法華経勧持品第十三の二十行の偈(詩の形の経文)のなかには、末法に法華経を弘通する者に3種類の強い迫害者、すなわち三類の強敵が出現することが示されています。
その強敵のそれぞれは、第1に俗衆増上慢、第2に道門増上慢、第3に僭聖増上慢(僣聖増上慢とも書く)、と名づけられています。増上慢とは、いまだ悟っていないのに悟りを得た等の種々の慢心を起こし、自分は他の人よりも勝れていると思う人をいいます。
第1の俗衆増上慢は、法華経の行者を迫害する、仏法に無智な衆生をいいます。法華経の行者に対して、悪口罵詈等を浴びせ、刀杖で危害を加えることもあると説かれています。
第2の道門増上慢は、法華経の行者を迫害する比丘(僧侶)を指します。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し、自身が優れていると思い、正法を持った人を迫害してくるのです。
第3の僭聖増上慢は、人々から聖者のように仰がれている高僧で、ふだんは世間から離れたところに住み、自分の利益のみを貪り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとします。その手口は、国王や大臣等に向かって、法華経の行者を邪見の者であるなどと讒言し、権力者を動かして弾圧を加えるように仕向けるのです。
悪鬼が身に入ったこれらの迫害者たちによって、末法に法華経を持つ人は、何回も所を追われたりすると説かれています。
このうち、第1と第2は堪え忍ぶことができても、第3の僭聖増上慢は最も悪質であるといわれています。なぜなら、僭聖増上慢の正体はなかなか見破り難いからです。
この三類の強敵は、末法に法華経を弘通する時、必ず現われてくるものです。
日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を引き起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされたのです。
(以上 http://j.mp/bMpmem 参照)

 大聖人御在世の時代に出現した三類の強敵とは、具体的に誰か。
 それについては「開目抄」で詳細に論じられています。結論だけを列記すれば。
 まず俗衆増上慢は、道門増上慢と僣聖増上慢の悪僧たちを支える「大檀那」たちであると言われています(御書p226)。これは、鎌倉の大寺院の高僧に供養する幕府の要人たちを指します。
 次に、道門増上慢については「法然等の無戒・邪見の者」(御書p227)であると言われています。これは、法然の系統にある多くの念仏宗の僧たちを指しています。
 そして、僭聖増上慢については、ある面から見れば「華洛には聖一等・鎌倉には良観等」(御書p228)であり、別の面から言えば「良観・念阿」(御書p229)であると名指しで指摘されています。これを通して、結局は、「良観」の名が浮き彫りにされ、僭聖増上慢を明確にされていると拝察できます。

 松葉ケ谷の法難の加害者の中心は念仏者です。その多くは、受戒・得度した正式な僧侶ではなく、自由に出家したものであったといわれています。これが道門増上慢であり、松葉ケ谷の法難の実行者であったといえます。

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四条金吾 第3回「法難 1」椎地四郎・大事の難四度

四条金吾 第3回「法難 1」

 四条金吾宛の御書の醍醐味は、前回も書いたとおり、師と弟子の、間、髪を容れぬやり取り。師の弟子を思い、弟子の師を信じ切り、守り抜く行動にあります。また、不思議なことに、大聖人の波乱と、金吾への激励がシンクロしていて、ダイナミックなドラマが展開されていきます。
 四条金吾の名が、初めて御書登場するのは「椎地四郎殿御書(如渡得船御書・または身軽法重死身弘法御書ともいわれる)」(p1448 弘長元年・1261年四月 四十歳御作)です。
 この御書が書かれたのが4月28日で、5月12日に伊豆流罪となっていますので、まさに法難の二週間前にかかれた御書です。
 この御書を与えられた「椎地四郎」については、詳しいことはわかっていません。しかし、この御書の中に四条金吾とよくよく話し合いなさいといわれていたり、また四条金吾宛の「四条金吾許御文(八幡抄)」(p1195、弘安3年・1280年12月16日 五十九歳御作)に

 しゐぢ(椎地)の四郎がかたり申し候・御前の御法門の事うけ給わり候こと・よに・すずしく覚え候へ

 (通解)
 椎地四郎が話してくれましたが、あなたが御主君の前で御法門を談じられたそうで、非常に嬉しく思います。

 と書かれており、椎地四郎と四条金吾が非常に近い間柄であったことがうかがえ、日頃から様々なことを語り合ったのではないかと想像されます。少なくとも四条金吾と親しい武士であったということでしょう。一説には、椎地四郎は船大工に関係のある武士だったのではないかとも言われています。
 弘安3年というと、四条金吾の領地問題も解決して大聖人の亡くなる二年前で、あらゆる意味でひと段落ついたところですが、この御書を拝すると、その時期にも四条金吾が主君に対して折伏を行っていたことがわかる、貴重な御書です。
 そのうえ、椎地四郎殿御書と四条金吾許御文とは著作に20年近い隔たりがあります。つまり、椎地四郎も四条金吾も、長年にわたって大聖人の近くで薫陶を受け、着実に信心を貫いた弟子同士、ということになります。
 また、椎地四郎は大聖人の御腹巻を捧げて大聖人の葬列に加わっていたそうです。これを見ても、おそらく大聖人の信頼も得ていたものと思われ、回りの信者からも認められた強信者であったのではないかと思われます。

 椎地四郎殿御書に戻ります。

 先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処・仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、これにつけても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし、師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ、末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや、大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ、

 (通解)
 先日話されていたことについて、彼の人にたずねたところ、あなたが仰っていたことと少しも違いがなかった。これにつけてもいよいよ信心に励んで、法華経の功徳を得てください。師曠(しこう)の耳・離婁(りろう)の眼のように聞いたり見たりされるのがよいです。末法には、法華経の行者が必ず出現します。ただし、大難がきたならば強盛の信心を奮い起こして、いよいよ喜んで信心に励んでいくべきです。火に薪を加えて、火勢が盛んにならないことがあるでしょうか。大海には多くの河川が流れ込みますが、大海は河の水を返すことがあるでしょうか。法華経の行者という大海に、たくさんの河の水が大難として流れ込みますが、押し返したり、とがめだてすることはありません。諸河の水が入ることがなければ大海はありません。大難がなければ法華経の行者ではないのです。

 椎地四郎が何を話したのか、「彼の人」とは誰かなど、全くわかりません。しかし、
 ①その情報に関連して、いよいよ信心に励んで功徳を得るようにといわれている。
 ②末法には法華経の行者が必ず出てくるといわれている。法華経の行者とは難を受ける人です。
 ③難がきたなら、喜んで、ますます信心に励みなさいと、難の来ることを予言するような言い方をしている。
 ④大難がなければ法華経の行者ではないのです。と言い切っている。
 というような点から考えて、大聖人に伝えられて情報は、大聖人に対する迫害、あるいは、大聖人を中心とする法華経の行者の集団に対する、何らかの良くない出来事に関するものだったのではないでしょうか。
この御書自体が、先に書いたように、伊豆流罪の二週間前にかかれていることからすると、そのことに関する情報であったといえるかもしれません。
 もし通説のように、椎地四郎が船大工の関係の武士であったとすると、流罪と船はどこかでつながる可能性もあります。
 
 大聖人に対する法難は、文応元年・1260年7月16日、「立正安国論」を北条時頼に提出されて以降に起こっています。法難を知ることは大聖人を知ることでもありますし、四条金吾を知ることでもありますので、少し法難について書いておきます。
 池田名誉会長は、大聖人の法難に関して次のように述べています。

 (引用)
 大聖人が迫害を受けられたのは、法華経こそが末法の人々を救う法であると強く主張したからです。世間の科(とが)があるわけではなかった。命をかけて、強く正義を主張したので、他の宗教者たちは震撼し、旧来の宗教的習慣に慣れた人々は不快感を抱いたのです。それが瞋恚(しんに)、怨嫉(おんしつ)として噴出した。(「御書の世界」第2巻p7)

 「旧来の宗教的習慣に慣れた人々は不快感を抱いた」というのは、非常にわかりやすい説明です。他人に対する不快感は、時に過大なものとなり、不快感を感じた人の持つ社会的力量に応じて不快感の表明方法が変わる、ということです。
 庶民は文句を言い、同じ職業人の僧たちは非難し、統治者は弾圧する。それが俗衆増上慢であり、同門増上慢であり、僭聖増上慢であるわけです。
 大聖人は、おそらく数え切れない難を受けられているのですが、ご自身「大難は四度」と仰っています。
 開目抄には次のようにあります

 既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし。(「開目抄」文永9年・1272年2月 51歳御作 p200)
 
 (通解)
 (建長5年・1253年に立宗宣言して以来)すでに、二十余年間、この法華経の法門を申してきましたが、日々・月々・年々に難が重なっています。少々の難は数もわかりません、大きな難が四度です。そのうちの二度は、しばらく置いておきますが、国の権力者による難・迫害が二度に及んでいます。特に、このたびの難は、私の命にまで及ぶものでした。そのうえ、弟子といい、檀那といい、わずかに法門を聞いただけの在家の人々まで、重い罪に処せられました。まるで、謀反を起こした者のようでした。

 ここで言う「大事の難・四度」とは、
 ①松葉ケ谷の法難
 ②伊豆流罪
 ③小松原の法難
 ④竜の口の頸の座から佐渡流罪
 のことです。
 「御書の世界」の中では、三種の増上慢と大聖人の法難について

 (引用)
 大聖人の法難を大きく括ってみると、実際に第一類、第二類、大三類という順に呼び出されたように見えます。
 立宗宣言から「立正安国論」の提出までは、表立っての迫害者は、主として第一類の俗衆増上慢、つまり在家の人々です。(「御書の世界」第2巻 p14)

 と書かれており、立宗当初の迫害者の中心が東条景信であることが明かされています。
 御書では、

 はじめは日蓮只一人・唱へ候いしほどに、見る人値う人聞く人・耳をふさぎ・眼をいからかし・口をひそめ・手をにぎり・はをかみ・父母・兄弟・師匠ぜんうも・かたきとなる、後には所の地頭・領家かたきとなる・後には一国さはぎ・後には万民をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととなへ・或は悪口のためにとなへ・或は信ずるに似て唱へ・或はそしるに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経・のこりの九分は或は両方・或はうたがひ・或は一向念仏者なる者は・父母のかたき主君のかたき・宿世のかたきのやうにののしる、村主・郷主・国主等は謀叛の者のごとくあだまれたり(「中興入道消息」弘安2年・1279年11月30日 58歳御作)

 (通解)
 はじめは日蓮ただ一人、題目を唱えていましたが、見る人、会う人聞く人いずれもが耳をふさぎ、目をいからせて、口をゆがめ手を握りしめ、歯噛みするなどして、父母、兄弟、師匠、善友などからも敵対されました。後には、生国の地頭や領家も敵対して、ついには一国をあげて騒ぎ、あらゆる人が驚動するようになりました。そうしたなかで、人の口真似をして南無妙法蓮華経と唱えたり、あるいは悪口のために唱えたり、信ずるに似て唱えたり、あるいはそしるに似て唱える人がいたりして、すでに日本国の民衆の十分の一は、ひたすら南無妙法蓮華経と唱えるようになり、残りの九分のうちには、あるいは題目と念仏の両方を唱え、あるいはどちらにつくべきか迷い、あるいは一途に念仏を唱える人は日蓮をまるで父母の仇、主君の仇、宿世の仇のようにののしります。村主、郷主、国主などは、日蓮を謀反人のようにあだんでいるのです。

 と、迫害は大きく広がって行ったのでした。しかし、大聖人ははじめからそのことを知っていました。開目抄に

 日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。
 これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ。(「開目抄」文永9年・1272年2月 51歳御作 p200)

 (通解)
 日本国で、仏教の諸宗が、人々を悪道に落とす正法誹謗の教えを説いており、謗法の悪縁が国に満ちていることを知っているのは、ただ日蓮一人です。
 このことをひと言でも申し出すならば、父母・兄弟・師匠が必ず反対するでしょうし、さらに、国王による迫害が必ずあるでしょう。言わなければ慈悲が無いのに等しいと考えていました。言うか言わないかについて、法華経・涅槃経などに照らして検討してみると、言わなければ、今世には何もなくても来世は必ず無間地獄に落ちる。言ったならば、三障四魔が必ず競い起こってくるということがわかりました。この二つの中では、言うほうを採るべきでしょう。それも、国主などからの迫害があった時に退転するくらいなら、最初から思いとどまったほうがいいと、少しの間思い巡らしていたのですが、宝塔品にでてくる六難九易とはこのことだったのです。「我々のような非力な者が須弥山を投げることが出来ても、我々のような通力の無いものが枯れ草を背負って劫火に焼かれることがなかったとしても、我々のような無智のものがガンジス川の砂の数ほどもある諸経を読み覚えることが出来たとしても、たとえ一句一偈でさえも、末法では法華経をたもつことは難しい」と説かれているのはこのことに違いありません。私は、今度こそ強い求道心を起こして、断じて退転しないと請願したのです。

 とある通りです。
 言わなければ無慈悲。言えば大難。行くか退くか。今世の安穏か来世の地獄か。
 知らない振りをしていれば、何事もなく、波風立てることもなく、いい人のまま一生を過ごせるのです。しかし、それではあらゆる人々の不幸を払い、幸せに導くことが出来なくなってしまいます。人として、どちらに生きる真があるでしょうか。
 当然、全ての人々の幸せを願い、訴え、行動することに人生の意義はあります。
 しかし、その先には苦難が待ち受けているのは明白なのです。非難と迫害が堰を切って襲ってくるのは間違いないのです。だからこそ、中途半端な気持なら最初からやらないほうがいいと、もう一重の深い誓願を立てておられるのです。
 六難九易は、法華経見宝塔品第十一に説かれていて、法華経を持つことの難しさを例えで示したものです。この悪世で法華経への心を持ち続けることは非常に難しいことで、さらに、法華経を弘めることは、至難中の至難であるということです。
 伝教大師は「法華秀句」で、六難九易の意義について、「浅きは易く深きは難(かた)しとは釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」と述べています。
 「丈夫」とは「調御(じょうご)丈夫」のことで、即ち仏のことです。「丈夫の心」とは「仏の心」「仏意」のことなのです。即ち、釈迦滅後には、浅い所経を去って、深い法華経を広めるのが、仏意を体した菩薩の実践なのです。
 大聖人は、自ら末法の御本仏として、そのことを実践されたわけです。
 それに関連して、池田名誉会長は

 (引用)
 現代において、この最も困難な戦いを貫いてきたのが、創価学会・SGI(創価学会インタナショナル)です。
 草創以来、同志の皆さまは、悪口を言われ、批判され、中傷されながら、それでもこの人を救いたい、あの友に信心を教えたい、幸せになってほしいと、勇気を奮って信心の偉大さ、学会の正しさを語ってこられました。
 自分さえよければいい、他人のことはどうでもいいというエゴと無慈悲の時代のなかで、友の幸せを祈り、また地域・社会の繁栄を願い、ひたぶるに広宣流布に走ってこられました。
 まさに「六難」にある「悪世に法華経を説く」「一人のために法華経を説く」「少しでも法華経の意義を問う」という勇気と信念と求道の尊い行動を、来る日も、来る日も、実践してこられたのです。
 このように広宣流布に戦う「勇者の心」こそが、そのまま「丈夫の心」であり、「仏の心」となっていく。「仏の心」に通ずる尊き同志の皆様の戦いがあればこそ、創価学会によって、未曾有の世界広宣流布の時代が開かれたのです。
 人間の生き方として拝すれば、「浅き」とは惰性であり、安逸であり、臆病です。この惰弱な心を勇敢に打ち破って、「深き信念」と「深き人間の偉大さ」につくのが「丈夫の心」です。
 「浅きに就くか」「深きに就くか」──。この生命の攻防戦は、自分自身の心においても一日中に何度もあることでしょう。
 人生も戦いです。弱い心に打ち勝ち、信心を根本として、「少しでも成長しよう!」「もう一歩、前進しよう!」「必ず勝利しよう!」と、勇敢に立ち上がっていく。この「深い生き方」を貫いてこそ、真の人生の勝利者になっていける。そのための私どもの日々の信心であり、学会活動なのです。
 「開目抄講義 上」p192

 と言われています。

 大聖人には、以上のような思念と覚悟があったわけですが、実際に動き始めると、身近なところから反対や迫害が始まります。これ以降、ご両親の反対や、師匠の道善房からも様々な反対があったようです。
 「王舎城事」には次のように書かれています。
 
 されば日蓮は此の経文を見候しかば父母手をすりてせいせしかども師にて候し人かんだうせしかども・鎌倉殿の御勘気を二度まで・かほり・すでに頚となりしかども・ついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申すへんもあるやらん、(p1138「王舎城事」文永12年=建治元年・1275年4月12日 五十四歳御作)

 (通解)
 ゆえに日蓮は、法華経の経文を見てからは、父母が手を合わせて止めたけれども、師匠であった人が勘当したけれども、また鎌倉殿の御勘気を二度まで蒙り、すでに首の座にもついたけれど、少しも恐れずに信仰を貫いたので、今では日本国の人々も、日蓮の言うことが道理かもしれないという人もあることでしょう。

 あるいは「報恩抄」には

 故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、(「報恩抄」p323、建治2年・1276年 7月21日 55歳御作)

 (通解)
 わが師匠、道善房にとって日蓮大聖人はかわいい弟子であるから、日蓮大聖人を憎いとは思われなかっただろうけれど、きわめて臆病であった上に、清澄山の住職を離れまいと執着した人でした。その土地の地頭東条景信を恐れていたし、また釈尊時代の堤婆達多・瞿伽利という悪僧にも異ならない円智・実成とが、それぞれ清澄の上と下にいておどかしていたのを、非常に恐れていました。そのため、故道善房は、最もかわいいと思っていた正法を奉ずる年頃の弟子たちまでも捨てたような人であるから、後生はいかがかと疑うのです。

 とも書かれています。
 当時の大聖人の回りの全ての人が、強信な念仏者の景信の怒りを受けたくないために迫害する側に回ったということでしょう。景信の怒りは尋常ではなく、大聖人が正午に立宗宣言をしたその日のうちに、大聖人を清澄寺から追放させたようです。
 そして、そうした念仏者の怒りが、後に松葉ケ谷の法難を引き起こしたといえると思います。
 清澄寺を追放された折、兄弟子の浄顕房と義浄房は義憤を感じて大聖人と共に寺を出たようです。
 御書には次のようにあります。

 貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし。(p373「本尊問答抄」弘安元年・1278年9月 57歳御作 与浄顕房日仲)

 (通解)
 あなたは、地頭が怒って日蓮を追放したとき、義浄房とともに清澄寺をお出になった方ですから、何はなくとも、そのことを法華経のご奉公と思し召して、生死の迷いを離れてください。

 そうして清澄寺を出た大聖人は、隣接する最上の花房に行かれました。そこには、立宗宣言に立ち会った浄円房がいました。
 また、領家の尼の援助もあったと考えられます。

 「当世念仏者無間地獄事」(p104)の冒頭には

 安房の国・長狭郡・東条花房の郷蓮華寺に於て浄円房に対して日蓮阿闍梨之を註るす、文永元年(1264年)甲子九月二十二日。

 との脇書きがあります。
 浄円房は長くその地にいたのでしょう。文永元年(1264年)は、伊豆流罪を赦免された翌年です。秋に安房に帰って、病身の母を祈り寿命を4年延ばした年に当たります。ということは、小松原の法難の年ということです。
9月22日には花房の地にいらして、11月11日に小松原で法難にあわれます。
 
 

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